98東工大文系基礎科目

宗教社会学(前期)[9]

橋爪大三郎 1998.6.19


尊皇攘夷とはなにか

山崎闇齊学派と水戸学



キーワード……

崎門の学、朱舜水、『靖献遺言』、浅見絅斎、水戸学、尊皇攘夷

 

江戸幕府はなぜ儒学を採用したか

 日本史で、「徳川幕府は儒教を官学とした」と習ったはずです。なんとなく、当たり前のような気がします。しかしよく考えてみると、これは変だ。武士と儒学くらい、ミスマッチな組み合わせはないのです。
 儒学は、中華帝国の正統思想。なかでも、宋の時代に起こった朱子学は、古典の新解釈と哲学的な宇宙観とを結合した、当時の最先端思想でした。朱子学の根本は、儒学の古典を学び徳を身につけた読書人階級が、官僚となって政治を行なうというもの。幕府は明の真似をして、朱子学を公認し、日本国家の指導原理としました。
 徳川三百年の平和は、元和堰武げんなえんぶのおかげでした。もともと対立関係にあった大名の抗争を禁止し、城郭も一国一城に限って、現状を固定したのです。武力行使を許さず、幕府の権威を確立することが、朱子学に期待されました。しかし武士は、読書人階級ではありません。科挙ではなく、武力で支配権を手にしたにすぎません。そういう支配を、朱子学では覇道といい、儒教の正統な統治形態(王道)ではないとします。
 幕府の狙いは、朱子学を絶対とし、朱子学を絶対とする幕府を絶対化することでした。朱子学には、統治の正統論があります。天皇に、征夷大将軍に任じられている徳川家が大名たちのなかで特別な位置を占めれば、幕府は安泰となるはずでした。

 

中国が、夷狄の国となった

 ところが間もなく、明が満洲族に侵略されます。朱子学を正統としていた漢民族の王朝が、夷狄に征服されたら一大事です。明から何回も救援の要請が来ましたが、幕府が対応に困っているうちに、明は滅亡してしまいました。日本人を母にもつ鄭成功が台湾に拠って抵抗し、江戸の人気を博したのもこの頃です。亡命者も多く、なかでも王族の血をひく朱舜水という学者は、日本の儒学に大きな影響を与えました。
 朱子学はなぜ、正統論をそれほど問題にするのか。それは、朱子学が成立した当時の中国(宋)自体が、存亡の危機にあったからです。宋の皇帝は金に捕らえられ、国土の半分を奪われました。南宋では抗戦派と和平派が対立しましたが、朱子は抗戦派でした。文天祥(宰相)や岳飛(将軍)の活躍も空しく、やがて南宋は元に滅ぼされます。この時代、儒学は「君臣の義」に基づいた、かずかずの英雄的人物を生み出したのです。
 朱子学は、政治を絶対化しますが、それは(夷狄の)政権を絶対化しないためです。夷狄や逆臣が政権を取っても、それは「天」の意思(政治の原則)に反すると考える。士は「天」の秩序(君臣の義)を体現した存在ですから、体を張り、勝敗を度外視して、命懸けで原則を貫きます。朱舜水自身、多大の犠牲を払って明の再興のために奮闘しました。最後は日本に永住を決意し、水戸の徳川光圀みつくにの師となりました。朱舜水が再発見したのが、楠木正成くすのきまさしげです。南朝の後醍醐天皇に殉じて死んだ正成を、朱舜水は朱子学の理想を体現した存在として評価しました。これが、光圀の『大日本史』に影響します。

 

天皇は中国人だった!?

 江戸時代、中国は日本にとって、世界の中心=憧れの的でした。中国人に生まれなかったことを生涯の不覚と悔しがる儒学者もいました。中国が儒学のモデルとなるのは、ソ連がマルクス主義のモデルとなったり、アメリカが民主主義のモデルとなったりするのと同じです。日本の事情を一切無視して、特定の外国にモデルを求めて憧れる思想を、慕夏主義といいます。
 中国ではしばしば王朝が交替するのに、日本で天皇の正統な支配が途切れず続いているのはなぜか。それは天皇が中国人だからだ、という説が唱えられました。林羅山は、「天皇は呉の太伯の子孫である」という南北朝の僧円月の説を紹介し、賛成しています。
 このように林家が天皇中国人説をとったのに対し、山鹿素行やまがそこうは、中朝論を唱えました。明が滅亡し、清に支配されて「畜類の国」となってしまったいま、日本こそが儒学の正統だというのです。そこで素行は、日本を「中国」と呼びます。
 いっぽう、日本には日本独自の歴史と伝統があるとし、儒学の古典を字義通りに受け取らない水土論も行なわれました。代表格は、熊沢蕃山です。彼は大名の求めに応じて、日本の現状に即した現実的な財政改革案・政策提言を行ないました。
 ところで、江戸時代の政治体制は、朝幕併存。すなわち、天皇が将軍を任命し、将軍が大名に君臨するシステムです。そして、天皇が正統なので、幕府が正統である、というロジックをとります。それでは、なぜ天皇は正統なのに、なぜ権力を持たないのでしょう。

 

闇斎学派は、幕府の正統性を否定した

 江戸時代の儒学(朱子学)は、現政権の正当化を目的としていました。そこで林家も、太宰春台も、伊藤仁斎も、中江藤樹も、荻生徂来も、誰も幕府の正統性を否定しませんでした。その唯一の例外が、山崎闇斎やまざきあんさいの学統だったのです。闇斎とその学派(崎門きもんの学と称する)は、後の尊皇攘夷思想の源流、倒幕→明治維新の原動力となります。
 日本を代表する政治学者・丸山真男まるやままさおは、江戸時代の儒学を政治学の観点から研究し、そこに近代的な意識の萌芽を見出しました。特に彼は荻生徂来に注目し、徂来の政治思想に「作為の契機」(社会秩序を、与えられたものでなく、人為的に作られたものとみる態度)があるとします。この説をまとめた『日本政治思想史研究』は、すぐれた書物ですが、皮肉なことに、明治維新を引っ張ったのは徂来学派でなく、闇斎学派でした。そこで、闇斎学派が果たした革命的な役割に注目したのが、山本七平です。彼は『現人神の創作者たち』(1983)を著し、闇斎学派の浅見絅斎あさみけいさいが書いた『靖献遺言せいけんいげん』という書物の意義を強調しました。
 山崎闇斎(1618-1682) は、最初比叡山に上って僧となり、のちに還俗して儒者となり、晩年には神道に入って垂加すいか神道を興しました。儒者としてのスタートは遅かったのですが、秀忠の庶子で幕府の重鎮・保科正行の師となり、門弟数千を数えたといいます。主な弟子に、佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎らがいます。闇斎は、論理徹底性を重んじ、また「湯武放伐論」(孟子の学説)を否定しました。(朱子学の四書には『孟子』が含まれているので、これは奇妙と言えば奇妙です〓 また闇斎にとって、儒学と神道は矛盾するものではありませんでした。

 

湯武放伐論のおさらい

 ここで、湯武放伐論を復習しておきましょう。湯武放伐とは、夏の桀けつ王を殷の湯とう王が、殷の紂ちゅう王を周の武王が、武力で倒したことをいいます。
 殷の紂王は、妲妃だっきに溺れ、酒池肉林の宴を催し、逆らう者は炮烙ほうらくの刑に処しました。西伯(のちの文王)、九侯、鄂侯の三人の大臣がいました。九侯の娘が紂王の宮廷に入りましたが、淫らなことは嫌だと拒絶したので、怒った紂王は彼女を殺し、父の九侯も殺して塩漬け肉にしました。これをとがめた鄂侯も、殺して乾し肉にしました。西伯も囚われますが、「天王ハ聖明ナリ」という歌をよんだりして、反抗しません。釈放された西伯が病死したあと、息子の発(武王)の代になっても、紂王の暴政はひどくなるばかりです。そこで武王は、文王の位牌を奉じて起ち、紂王を討伐します。そして、殷を諸侯のひとつとして周に服属させました。いっぽう、西伯の徳を慕う伯夷・叔斉はくいしゅくせいの兄弟は、王権を簒奪した「周の粟」は口にしないと言って会稽山にこもり、餓死します。
 孔子は、文王、武王、周公旦の三人を聖人(模範的政治家)として尊敬します。しかし文王と武王の行き方は別々(文武両道)で、むしろ正反対です。また、伯夷・叔斉の兄弟も理想とされます。いったい儒者は、どう行動するのが正しいのでしょう。
 孟子をはじめ多くの儒者が、湯武放伐を正しいと考えるのに対して、山崎闇斎、浅見絅斎らはこれを絶対に否定します。革命を否定するイデオロギーが、明治維新の原動力になる。このパラドックスを、以下で追いかけてみましょう。

 

『靖献遺言』は勤皇の志士のバイブル

 浅見絅斎の著した『靖献遺言』は、戦後忘れられましたが、明治維新を戦った勤皇の志士のバイブル、そして、特攻隊の青年たちの愛読書でした。日本人の行動様式に大きな影響を及ぼした重要な書物です。
 浅見絅斎(1652-1711) は、近江の町人(裕福な米屋)の次男に生まれ、教育熱心な父の影響で儒者となりました。実家が破産し、晩年は特に貧乏でした。もともと武士でない彼は、かえって武士以上に武士らしい厳格な規律で自らを律しました。
 『靖献遺言』は、“生死を問題とせず絶対的規範を遵守した者の最後の言葉”というような意味で、八人を紹介します。・屈原(楚の詩人、憂国の政治家で、汨羅べきらの淵に身を投げて死ぬ)、・諸葛亮孔明(漢の再興を願って蜀漢の劉備を助けた軍師)、・陶淵明(晉代の官僚・詩人、腐敗を嫌い自然を理想とする詩を創作)、・顔真卿(唐の書家、安禄山の乱で義兵を率い戦う、剛直な性格のため晩年殺される)、・文天祥(南宋の宰相、義勇軍を率いて元と戦い、帰順せず獄死)、・謝枋得(元軍と戦って部隊が全滅した後、故郷に帰って老母の葬式をあげる)、・劉因(元代の儒者、皇帝に招かれるが一日で辞表を出し帰郷)、・方孝孺(明の儒者、永楽帝を叛臣と断じ、詔書の起草を拒否、親族847人を殺害され、先祖の墓をあばかれても拒み続け、肉を殺がれて死ぬ)、の八人です。
 このように「君臣の義」を絶対視することを、日本人はこの書物から学びました。「悠久の大義に生き」ようとした神風特攻隊や一億玉砕の考え方も、これが元です。

 

水戸光圀と『大日本史』

 朱子学の正統論の論理的な帰結は、天皇が唯一の正統な君主であること、そして、湯武放伐論は認められないこと(さもないと、天皇を将軍が放伐してよいことになる)、を論証したのが山崎闇斎でした。浅見絅斎は、尊皇を貫き戦う人間モデルを創造しました。
 水戸藩の徳川光圀(水戸黄門)は、天皇のためなら将軍を打倒してもよいと考える尊皇家でした。朱舜水の影響もあり、中国の『資治通鑑』にならって『大日本史』を編纂することになります。朱舜水の弟子・安積あさか澹泊、闇斎の孫弟子・栗山潜鋒、絅斎の弟子・三宅観瀾が参加しました。しかし、南北朝のどちらが正統かという正閏論争、人物評価をめぐる「論賛」など編集が難航し、とうとう論賛はカット。光圀や主な儒者も死んでしまい、完成まで時間がかかったわりには、論理的に首尾一貫しないものになりました。
 この作業の過程で、栗山潜鋒の『保建大記』、三宅観瀾の『中興鑑言』が著されます。前者は、保元・平治の乱を考察し、天皇家から武家への政権移行は、天皇家の「失徳」に原因する(天皇が規範を失ったので、源義朝が父・為義を処刑するという無規範状態が生まれ、戦乱が拡大して武家が天下を簒奪した)とするもの。朱子学の原則に従えば、父とともに処刑されても、天皇の命令に従ってはならないのです。後者は、後醍醐天皇の建武中興を考察し、後醍醐天皇は「帝王」意識のみ強烈で、それに伴うべき責任や自己規範が欠落していたので、武家から政権を奪いかえすことはできなかったとするもの。どちらも“天皇が徳を取り戻せば政権が自動的に戻ってくる”ことを含意し、大政奉還を預言した内容となっています。

 

水戸学と尊皇思想

 水戸藩ではその後、闇斎学が卑俗化したかたちで尊皇思想に育っていきますが、初期の闇斎学派は、昭和の皇国史観のようにコチコチのイデオローグでなしに、リアリストでした。たとえば、佐藤直方は、「日ノ神ノ託宣ニ…子孫ニ不行儀ヲスルモノアラバ蹴殺サウト被仰タナレバ、ヨイコトゾ(義にもとる天皇がいたら蹴殺されるとよい)」と天皇を批判しています。万世一系とはいえ、女帝はいるは、兄弟を殺して位に就いた天皇はいるはで、決して正統でないというのです。また三宅観瀾の『中興鑑言』は、後醍醐天皇批判があまりに激しいため、戦前出版されたものは伏字だらけでした。
 しかしやがて、水戸学は、あるべき天皇像にしたがって歴史を再構成するという皇国史観に傾いていきます。「天皇が万世一系なのは有徳だから、有徳なのは万世一系だから」というトートロジーが幅を利かせます。このような尊皇思想が、攘夷思想と結びつくときに、幕府を打倒する大きなエネルギーをうんだのでした。

 

赤穂義士論争と明治維新

 元禄一五(1702)年、元赤穂藩の藩士・大石良雄ら四六人が、吉良邸を襲撃、主君浅野長矩の仇・吉良義央を討ちます。この事件は国民的な議論をよび、三宅観瀾『烈士報讐録』ほかおびただしい著書、論文が発表されました。
 闇斎学派の佐藤直方は、原則的朱子学の立場から、仇討ちを否定します。いわく、浅野は公法を犯して処刑されたもので、そもそも吉良を「仇」とするのは不当である。浅野も四十六士も「公朝」(国家秩序)よりも私怨を先にしたもので、同情の余地なし、とします。同じ否定論でも、太宰春台はニュアンスが違います。いわく、まず幕府は誤判を犯した。殿中殺人は死刑だが、未遂は減刑されるはずである。いっぽう、封建制の原則からすれば、武士は主君に忠誠の義務があっても、幕府に忠誠の義務はない。そこで、浅野家の再興を幕府に陳情、駄目なら赤穂で城を枕に戦死すべきだった、とします。
 大学頭・林信篤は、『復讐論』を著しました。いわく、幕府の法は義に反するものである。四十六士のように、心情的に君主と一体化して行動してこそ、義である。そこで、法を破り処刑されても、四十六士は立派である、とします。幕府みずから法の義を否定するなど、論理がめちゃめちゃのようですが、義士の称揚は幕府の政策でした。
 いっぽう、同じ闇斎学派でも浅見絅斎は、断固、肯定します。いわく、吉良と浅野の関係は「私闘」であり、それを咎めるなら「喧嘩両成敗」の原則を適用するべき。けれども幕府は「大礼ノ場ヲ乱ル罪」で罰してしまった。そこで、四十六士が仇を討つのは当然である、とします。しかも浅見絅斎は、「忠孝一致」の原則・・主君(浅野長矩)〜赤穂藩士の関係を、父〜子の倫理に見立てて絶対化すること・・を打ち出します。朱子学ではあくまで分離していた義/孝を、忠=孝と一致させたのが、日本朱子学の特徴です。
 当時の天皇家は、山城の国の一領主。法的に幕府の支配下に置かれていた点は、浅野家の赤穂藩と変わりません。もし、天皇を絶対視し、その確認不能な「意志」を自らの志として行動する人間が出現したら? 赤穂義士の場合と同じで、それを肯定するほかないでしょう。幕末には、薩長や水戸藩ばかりか、幕府も会津も、国中が尊皇を旗印にするようになります。そういう雰囲気が、攘夷の主張(外国に侵略されるのは、政治的な正統性が誤っているからだ)と結びついた結果、尊皇攘夷思想→倒幕運動が成功したのです。



☆小テスト(2/3)のカヴァー:・般若心経の分析や感想を書いて提出する。・般若心経を暗唱する(月火水金の昼休みに西4-603 橋爪研で)

☆来週は、最後の講義「再び宗教を考える」+質問大会です。質問のある人は紙に書いて教室、または西4入口の郵便受けに提出して下さい(加点〓

★期末テスト……7月10日(金)の授業の時間に実施します。最初の10〜20分は持ち込み禁止(知識問題)、残りは持ち込み可能(論述問題)とします。遅刻しないこと。

☆任意レポートを、随時受け付けています。最終締切は、9月18日をメドに願います。


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