専攻説明会が行われる

専攻説明会
 入学希望者向けの専攻の入試・教育・研究説明会が4月26日、西9号館コラボレーションルームにて行われました(写真)。同日、本年度最初の公開DPも実施、多くの見学者を迎えました。なお、公開DPは今後も予定されています。詳しくは入試情報のページをご覧ください。

橋爪大三郎教授 5 afterword

橋爪大三郎の三冊 いま、橋爪先生は「仏教リバイバル」ということを構想されています。宗教社会学についての研究をされる中で、『家庭でできる法事・法要』(径書房)という本を計画しています。宗教改革を経なかった日本の仏教を、自覚的に捉え直す試みです。子供が宗教を毛嫌いしたりせず、日常の中にきちんと仏教的伝統を位置づけるためにどうしたらいいか、ということを考えているそうです。それには、原典を読むのがいいということで、阿含経系の法句経などをお坊さんにお願いして、漢文を総ルビにし解釈をつけて、家族でお経を詠んでセレモニーができるように構成されています。乞うご期待!

 大学での新しいプロジェクトとしては、「世界文明センター」(Center for the Study of World Civilizations) の設立に尽力されています。これは、科学技術と文化・芸術のコラボレーションを目指し、東工大が新たなる知の発信の場となるための企画です。人文学院と芸術学院によって構成され、先生は人文学院のさまざまな講座、ゼミ、シンポジウム、講演会などを企画されます。 Civilizations  の“s”の部分が重要で、多様な文明、文化を既存の学問の枠組みを取り外して、自由に学べる場を提供するというプランです。大学としてメッセージを送ること、大岡山の近所の人にも来てもらえるような地域密着型、地域に開放された大学の活動を目指しています。

VALDESについて、橋爪先生は政治を志望する人にもっと来て欲しいと願っています。実は、日本の総理大臣になる人材を輩出するというヴィジョンがVALDES設立時からあるのです。去年、先生は松下政経塾で講義をする機会があり、「学力は負けてないけど、根性が違う」と感じたそうです。「彼らが自分の志に賭けている意気込みが伝わってきた。政治家は、選挙に出て投票してもらって、有権者の支持を受けて、やっと大きな仕事ができる。政治家は、事業家であり起業家。自分ひとりでは政治はできない。うねりを起こし大きな波を起こして、実際に何かを変えていくことが政治だけれども、それは意思しなければ絶対できない。意思決定とはそういう場のはずだ。志に賭ける覚悟と根性のある人にVALDESに来て欲しい。VALDESもつアカデミックのバックグラウンドを最大限に活かして、大きな仕事をする人材を育てていきたい」という熱いメッセージを最後に頂きました。(取材・文・写真 土谷真喜子 6期)

・橋爪大三郎研究室

橋爪大三郎教授 4 問題を個別に、初心に立ち返って、解決すること

 権力の存在を肯定してみようと考えたのは、この世の中には、存在してはいけないものは存在していないはずで、存在しているからには、何か理由があると思うようになったからです。それでも、現実の社会には、まずいことがいろいろ起こっている。戦争とか経済問題とか環境問題とか…。そういう問題を解決する場合に、ポーカーの全とっかえみたいに、この社会を丸ごと変えてしまうことはできない。そういう革命みたいなやり方ではなく、カードを1枚ずつ、変えていく。プラグマチックに、実践的に、功利主義的に、大勢の人びとの同意をえながら解決していくほうが無理がない、と思えるのです。全とっかえは、相当数の人びとがそれまでの積み重ねてきた人生を失ってしまうということ。そういうやり方に人びとが支持を与えるのは、人びとが本当に絶望したときしかない。産業社会は、科学技術によって生産力を高め、資本を蓄積して、人びとが幸せを追求する可能性も広がる社会であるはず。産業社会を否定しても、どうしようもない。それより、初心に立ち返って、問題を個別に解決するのが、社会科学の役割ではないか。そういう言葉が手に入る気がしたのです。

 こういう見方をすると、リベラリズムや近代主義はよくできていると思います。ホッブズ、ロック、ルソーらは、みんな本気で自分の言葉で話していて、それで社会が形づくられ、近代が出来あがった。

 ここで問題は、日本という存在です。ヨーロッパ近代と接触した日本は、人まね小猿みたいに、そういう土壌がないところに、いきなり近代の制度だけつくってしまった。「ドリトル先生の郵便局」というのがありますが、しくみがわかってないのに、いきなりポストをつくって手紙を入れてしまったようなもの。それでも、鉄道や運輸や工業など、技術と資本と訓練で解決できるものは比較的うまくいきました。一番弱いのはソフトウェアの部分。宗教、哲学、思想、芸術などが絡んだ問題では、ギャップが大きすぎて空回りしている場合が多い。その隙間を、土着のもので埋めました。その典型が天皇制です。そうやって、なんとか近代の制度を回して行った。日本では、前近代と近代が一緒に組み合わさって動いています。こういう不思議な仕組みは、あまり見られない。これを解明することは日本社会を解明すること、すなわち、日本の社会科学者の大事な課題だと思います。

 山本七平さんのこの本は、山崎闇斎を中心としたグループが、天皇が神であるというアイデアをどのように思いつき、江戸幕府よりも天皇が日本社会の正統性の規準になることを論証して行ったかを考察した本です。山崎闇斎は,僧侶から儒者となり、最後には神道を創始した特異な人物です。その学統は、明治維新の源流となった。山本七平さんはアカデミズムの学者ではないけれども、本質的ないい仕事をされている。せっかく近代の価値観や思考方法を学ぶのであれば、日本社会が抱えている問題も根本から考えてみて欲しいと思います。

山本七平 『現人神の創作者たち』 文藝春秋社 ¥1,800

橋爪大三郎教授 3 世界を言葉で記述する

tractatus論理哲学論考 大学院の入試に、ドイツ語と英語がありました。それをいっぺんに勉強できてちょうどよかったのが、『論理哲学論考』です。これは、英独対訳になっている。独文科を受験する友人と、一緒に読みました。毎回担当を決めて、喫茶店で半日ねばって、一年かけて読みました。5時間かけて10行しか進まない、なんていう日もあった。こういう本は、読むのに時間がかかるのです。ヘーゲルもそうですが、コツが掴めるまで時間がかかる。

 『論理哲学論考』は、世界をこの本一冊に閉じ込めてしまおうというヴィトゲンシュタインの野望の産物です。この点は、ヘーゲルやマルクスにも通じます。彼らは、メビウスの帯のように、螺旋状にさまざまな要素を配置していって、世界が複雑に生成するその動きを捉えようとする。いっぽうヴィトゲンシュタインは端的に、世界に生じていることを残らず記述しようとする。それを読むと、「世界はこうです」と端的に言い切っているこの人はいったいどこにいるのか、という疑問が浮かびます。私の答えは、「この本の外にいる」。本には「ひとりしかいないので独我論です」と書いてある。それを読む私は、自動的にヴィトゲンシュタインになってしまう。彼と同じ場所に立って、なるほどここに世界がある、と思う。けれど、それを認識している私だけは、その世界の中にいない。これにはちょっと、精神的な危険を感じるでしょう?

 当時の私は、たった一人のための世界の話だから、これは社会学には絶対ならないと思って、それ以上ヴィトゲンシュタインの仕事を掘り下げなかった。しかし晩年のヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の立場を捨てて、「言語ゲーム」(language game)という、人間が大勢存在する話に取り組むのです。あとでそれに気がついて、それなら社会学に使えると思いました。

Ludwig Wittgenstein, Tractatus logico-philosophicus, 1921.
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹訳 『論理哲学論考』 2003年 岩波文庫  ¥735 (他にも数種邦訳がある)

橋爪大三郎教授 2 構造主義に出会うまで

Les structures elementaires de la parente 私の大学時代は、ベトナム戦争があって学生運動が盛んでした。その学生運動を支えていたのが、マルクス主義。高校のときに大学では社会学をやりたいと友人に言ったら、お前とは絶交だと言われた。レーニンが、社会学はブルジョワ科学だと言ったので、マルクス主義は社会学を認めないのです。

 大学に入ってからは、マルクス主義の本を沢山読みました。非常に面白かった。マルクス主義は、日本で「創造的に発展」していて、吉本隆明さんとか、宇野弘蔵さん、黒田寛一さん、田中吉六さん、三浦つとむさん、羽仁五郎さんなど、多くのすぐれた人たちがいた。なぜ日本で独自に発展したのかは、興味深い問題です。もともと江戸の知識人は下級武士や食い詰めた商人で、体制から疎外された人びとが儒学を勉強していた。知識人は、長屋の片隅で大根のしっぽをかじりながら寺子屋なんかをやって糊口をしのぐ、というのが日本の伝統だった。体制派では学問はできないというのが、マルクス主義、社会主義と似ていたのかもしれない。ソ連や中国は成功したマルクス主義なので、体制派で、現実と妥協しているのです。政権を担当するのですから当然でしょう。日本では食い詰めた人びとが夢を描いたのですから、創造的発展になった。

親族の基本構造 日本のマルクス主義の著作には、ふつうのマルクス主義ではないことがいっぱい書いてありましたが、それでもマルクス主義。どれが正しいかで悩む。当時は、今日デモに行くかどうか、友達と論争になったら何と言うか、毎日自分なりの判断をしなければならない時代でした。行動する知識人になろうとすると、アカデミズムもまったく役に立たない。このまま現実と折り合わず、現実が間違っているとして生きていくのなら、赤軍派になるしかない。これはいくらなんでも、ちょっとおかしいぞ、と思っていたときに出会ったのが、レヴィ=ストロースだったのです。

 最初に読んだのは『構造人類学』の英語版。レヴィ=ストロースはマルクス主義をくぐって来た人で、マルクス主義とはまるで異なる考え方をしている。しかも、転向とは違って、マルクス主義を越えてつぎの地平を切りひらいたのだと思う。構造主義という新天地に、私は大変な開放感を感じました。これまで考えたことのないような発想で出来ている本で、実に新鮮だった。そこで、修士論文の研究テーマを、レヴィ=ストロースの主著、 『親族の基本構造』に決めたのです。で、どんなことがわかったかと言うと、それは私の 『はじめての構造主義』(1988年講談社現代新書)に書いてあります。

Claude Lévi-Strauss, Les structures élémentaires de la parenté, 1949, PUF.
クロード・レヴィ=ストロース 馬渕東一・田島節夫監訳 『親族の基本構造』 1977年 上・下 番町書房(現在入手可能なものは、福井和美訳 『親族の基本構造』 2000年 青弓社 ¥14,700)
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