98東工大文系基礎科目

宗教社会学(前期)[8]

橋爪大三郎 1998.6.12


儒教とは何か

孔孟の思想・朱子学



キーワード……

礼、徳治主義、士大夫、天命、易姓革命、四書五経、理/気

中国社会の基本構造

 儒教は、中国独特の思想です。まず中国とは何かについて、理解しておくべきでしょう。
 中国は、単一民族ではありません。中国を、日本のようなひとつの国と考えるより、一個の世界と考えるべきです。それに匹敵するのは、ヨーロッパでしょう。ヨーロッパは、地中海とアルプス山脈に隔てられて、民族統合が進みませんでしたが、文化的にはキリスト教という共通項をもっています。いっぽう、大平原で移動の自由な中国は、儒教を軸に多くの民族が融合し、漢民族(中国人)を形成しました。
 儒教の根本は、差別道徳です。中国は、底辺における宗族官僚機構(父系の血縁集団)、頂点における官僚機構の、二種類の人間関係からなります。修身→斉家→治国→平天下という順序   △ △ … △ 宗族は、宗族のうえに集権的な国家機構が位置する関係を表しています。親を大事にし、そのつぎに兄弟や身内、それから他の人びとに及んでいく差別的な儒教道徳は、こうした社会構造と調和しています。戦乱の続く中国では、宗族は安全のために不可欠なのです。
 宗族(そうぞく)は、父系血縁集団(patrilineal descent group)です。日本にはないので理解しにくいですが、祖先崇拝を行なう数百〜数万人規模の集団と考えてください。中国では血縁関係が強力です。それと官僚機構を絶縁するため、科挙や宦官が導入されました。そのどちらも日本に入りませんでしたが、それは日本に宗族がないからです。

 

都市国家から帝国へ

 儒教は、古代中国の戦乱の時代に生まれた思想です。その社会背景を理解しましょう。
 中国の歴史は、漢民族が周辺民族を同化し、膨張していく過程です。中国で最初に都市国家が現れたのは、黄河の上流域。以後、千年以上をかけて、それが華中→華南に拡大していきました。華南の米作文化は、城壁をつくる習慣がなかったのです。
 殷の遺跡は、巨大な城壁と祭儀場で特徴づけられます。城壁は版築(粘土を練り固めた煉瓦)で作ります。それに代わった周(もとは殷に同化した西方の遊牧民)は、王族がトルコ系、民衆はチベット系だったらしく、王と諸侯(王の一族や有力氏族)が要塞都市を約1000建設しました。大きな都市は城(内側)、郭(外側)の二重の城壁をもち、国/都/邑の序列がありました。社会制度は封建制で、都市は封土(諸侯に与えられた土地)を持ちます。ほかの都市は王が同族を派遣して治めさせましたが、やがて諸侯化します。社会階層は、王・諸侯と貴族(その血縁者)/庶民(農民・職人・商人)/国人(被征服民)/野人(都市外に住む)のように、複合的でした。都市国家はその周辺を治めるのみで、あとは原野が広がっていました。周も、祭政一致によって統治されていました。

 

新興階級の台頭

 春秋→戦国にかけて、大きな社会変動が起こります。都市国家が崩壊し、より広い範囲で統合され、領土国家→帝国(秦・漢)が成立していきます。戦闘方法も変化し、都市内に「里」という単位で住んでいた農民は、氏族的に結束し、「士」と称して戦争に参加しました。歩兵が増加(野人も参加)し、騎兵軍団も登場します。それにともなって、貴族が没落し、新しいタイプの士人が登場します。孔子もこの階層の一員でした。彼らは周初の「天」のイデオロギーを再評価する新思潮を信奉しましたが、これが儒教でした。
 当時の中国は、奴隷制で、諸侯は家内奴隷を抱えていました。男性の家内奴隷を臣、女性を妾といいます。諸侯の家内奴隷は、次第に側近と化し、権力をふるい始めます。すると奴隷でないのに、自発的に臣になろうとする者も出てきますが、これを官といいます。新しいタイプの士人は、こうした人びとでした。彼らは、宰相(周公旦)を美化して理想とし、血縁にもとづかない(教育にもとづく)人材抜擢が国家を強化すると主張します。いっぽう大夫は、新興地主で、士・大夫の両階層が台頭していったのでした。

 

孔子の生涯

 中国史上、最初の知識人・孔子(前552-479)は、こうした時代に出現します。彼は、姓は孔、名は丘、字を仲尼。春秋時代の末期、魯(現山東省)の曲阜に生まれます。魯は、周の建国の功臣・周公旦の子が興した国でした。父は叔梁〓、母は顔徴在、父は士の身分でしたが、二人は結婚していませんでした。孔子は子供のころから苦労し、さまざまな職を転々として育ちます。青年時代、下っ端の役人(倉庫、牧場の番人)になります。二十歳の頃結婚、息子の鯉が生まれます。36歳のとき、魯の昭公が亡命するのに従って、特に家臣ではなかったのですが、斉国に随行します。のち帰国、孔子学団を形成します。息子の鯉もやがて死に、孔子52歳のとき魯の官僚になります。外交で一定の成功を収めるものの、国内改革を試みて失敗、挫折します。そののち魯を去って衛に、さらに曹→宋→鄭→陳→衛→陳→蔡→楚→衛をへて、魯に帰国します(56〜69歳〓 途中、反対派に襲われて殺されそうになったり(陳蔡の難)、帰国直前に弟子の顔回が死んだりなど、苦難が続きます。多くの弟子を指導しつつ学問を続け、哀公十六年の4月、74歳で病死しました。

 

孔子の業績

 孔子の最大の業績は、古い文書を編纂し儒教の古典として残したことです。
 儒教の古典を、四書五経と称しますが、これは後代の朱子による呼び名。五経をすべて孔子が編纂したと伝えられていますが、事実ではありません。まず易経は、八卦占いのやり方がまとめてあり、春秋・戦国期に行なわれていた占いの集成です。書経は、王たちの公的言辞の集成で、古文は魏・晋代の偽作、今文きんぶんは戦国後半期に編纂されたものとみられます。詩経は、祭祀などの折に歌う歌詞を集めたもので、後世、孔子学派の人びとに蒐集されたものです。礼記らいきは、儀式の次第書きで、周礼は漢代の作、礼記、儀礼ぎらいも孔子以降と作とみられます。春秋は、魯の古記録にもとづいて歴史を記したもので、戦国時代、孟子などの手で採用されたものです。いずれにせよ、こうした編纂事業は孔子が先鞭をつけたもので、慣例を示す多くの事例が蒐集されました。
 もうひとつの業績は、弟子の教育です。彼らを官僚として諸国に売り込むため、孔子は弟子たちに文字、言語、朝儀、礼法、音楽、弓術などを教え、学校は職業紹介所も兼ねました。礼とは、政治制度の意味で、こうした共通項がないと、民族・出身・文化的背景がまちまちな当時の官僚は、統制がつかないのでした。

 

孔子の思想

 日本でなじみの深い論語は、弟子がまとめた孔子の言行録です。學而篇〜尭曰篇まで二十篇あり、三系統のテキストを合体したもの。その中心思想は仁、すなわち、忠恕(まごころと思いやり)をともなった人間らしさの徳を説くものです。支配層の政治的努力と倫理性(仁)によって、安定した国家経営が実現できるという徳治主義の主張が、儒教の根本です。さらに儒教は差別道徳の立場に立ち、家族や血のつながりを大事にしますが、これは墨子の兼愛説(不特定の人に対して奉仕しよりよい関係を作ることを強調する説)や楊朱の自己愛説(人間は自分しか愛せないというリアリズム)に対立します。さらに孔子は、「述而不作のべてつくらず」とする伝統主義の立場も強調します。述べるとは、先輩から教わったままを伝えること。これを先王の道と称します。新興の士階級が、こうした伝統的支配者の文化を身につけうるとした点が、革新的なのでした。
 儒教が中国の正統思想となったのは、政治がよければすべてが解決するという政治万能主義にありました。孔子は「怪力乱神を語らず」とのべ、死後の世界や超常現象について発言しませんでした。中国では、人間関係がすべてです。祖先崇拝は、確定した過去の人間関係によって、不安定な現在の人間関係を整序しようという試みと理解できます。聖人(古代の政治家)を理想化するのも、同じ伝統主義の現れだと考えられます。

 

儒教のテキストについて

 ここで儒教のテキストについて整理しておくと、もっとも権威の高いテキストは経で、「孔子以前から存在していた古典で、孔子の手によって編纂されたもの」です。これにつぐランクの伝は、「孔子自身、及び孔子以後の学者の所説」です。これら経伝の欄外に附せられた第一次的な解釈を、注といいます。注をさらに解釈し、必然的に経伝の本文も及ぶ第二次的な解釈を、疏そといいます。これらは論理的で、問答体のものもあります。漢代の五経は、易・書・詩・礼(儀礼)・春秋(経文のみ)を指しました。論語は伝のひとつです。唐代の五経は、毛詩・尚書・周易・礼記・左伝で、これに儀礼・周礼・公羊伝・穀梁伝を加えて九経ともいいました。宋代の十三経は、易経(周易)・書経(尚書)・詩経(毛詩)・周礼・儀礼・礼記・春秋左伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝・論語・孝経・爾雅・孟子をいいます。朱子学は四書五経を掲げましたが、ここで四書とは論語・孟子・大学・中庸をいい、後の二書はもともと礼記の一部が独立したものです。

 

孟子の生涯

 孟子(前370?-290?)は戦国時代、鄒すうの国(現山東省)に生まれました。姓は孟、名は軻、字は子車といいますが、生い立ちも青年時代もはっきりしません。三十代、孔子の孫弟子に儒教を学ぶいっぽう、淳于〓じゅんうこんの弁論術、宋〓そうけん、尹文ら原始道家の思想、墨子の実用主義、楊朱の自愛説(感覚論的個人主義)など、諸子百家思想の影響を受けました。順次、梁の恵王→斉の宣王→滕の文公の国政顧問となり、井田制など自らの政治思想の実現に努力しますが、果たさぬまま引退して死亡します。子供のころ、墓場の裏→市場の脇→学校の隣に引っ越したという孟母三遷の故事は伝説です。『孟子』は、古くは孟子の著作と信じられましたが、弟子や孫弟子の記録を編集したもののようです。

 

孟子の思想

 当時、農家の許行が、分業を廃止する理想主義的な平等社会論を唱えていました。孟子はこれに反対、分業肯定論を唱えます。自給自足は反時代的で非現実的だとし、尭、舜の時代から大人(統治者)と小人(被統治者)の基本的分業が確立していたと主張します。
 また孟子は、孔子の王道思想を継承します。王道は、孔子の仁愛を政治に拡張したもので、覇道に反対するもの。孔子は周の文王、武王、周公旦を理想化しましたが、墨子は夏の禹王の黄河治水の事績を理想化しました。孟子はさらに古く、尭、舜の道を説きます。尭、舜は禅定しましたが、禹以降は世襲となりました。孟子の人間観は性善説で、性(先天的な人間固有の能力)を善と考えます。これは荀子の性悪説に反対するものです。性善説が発展して、仁義礼智の「四徳」となります。制度論としては、井田制を唱えました。これは、九百畝を八家族に分割、中央の公田を共同耕作して租税とするという農地均分制です。当時は実現しませんでしたが、そのアイデアが隋唐時代の国家政策に採用され、日本にも班田制として伝わりました。
 孟子の思想でもっとも論争の種となったのが、湯武放伐論(=易姓革命説)です。
 殷の湯王が夏の桀けつ王(&末喜ばっき )を、周の武王が殷の紂ちゅう王(&妲己だっき)を討って、新王朝を興したことの正統性をめぐる論争があります。伯夷はくい叔斉しゅくせいの兄弟は、殷末の孤竹君の子でしたが、ともに位を譲って亡命し、文王に仕えましたが、文王の子武王が紂王を討ったのに反対し、首陽山に入って餓死した記事が論語にあります。孔子はこの兄弟を絶賛しました。しかし孟子は、失徳の君主は天命を失ったのだからもはや天子でなくただの暴君であり、討ってよいという湯武放伐論を唱えました。これがのち、朱子学の正統説となりますが、日本の尊皇思想は、湯武放伐論を否定し君主(天皇)への絶対的忠誠を唱えるところから出発しました。孟子は明治維新の源泉のひとつなのです。

 

中華帝国の成立と儒教

 中国を最初に統一した秦の始皇帝は、儒教でなく法家の思想を重視しました。焚書坑儒の弾圧が有名ですが、漢代になると儒教も復興し、法家の思想と混淆しながら、中華帝国を統治する思想に再編成されていきます。
 隋唐時代、儒教は正統思想の中心に位置しましたが、仏教や道教の勢力もあなどりがたく、土地所有に基礎をおいた世襲大貴族も強力でした。貴族制が解体し、皇帝を頂点とする絶対主義的な官僚制が完成するのは、宋代です。このときに完備された科挙の制は、清末までの中国に圧倒的な影響を及ぼします。とくに明代以降は、朱子学の解釈に従って科挙の問題が出題されるというかたちで、朱子学が正統とされ、思想が統制されました。

 

朱子と朱子学

 朱子(1130-1270) は、宋代の儒学者で、姓は朱、名は熹、尤渓県(福建省)の生まれ。父は高級官僚で、本人も科挙に合格、役人を務めたのち任期満了で帰郷、実質的な年金生活とも言える祠祿の官となります。弟子を教えつつ勉学・著述に励み、『通鑑綱目』『近思録』や四書の注解を多く著しました。
 朱子の興した朱子学は、唐代以降科挙にともなって出現した読書人層(士大夫)の思想的勝利の宣言とも言えるものです。士大夫は、土地を所有していないが国家中枢を占められるというのがその主張で、道教・仏教(禅宗)や、門閥貴族・地主と対立する考え方です。朱子学は、絶学となっていた孔子・孟子の道を再建するという正統性を正面に掲げ、四書→五経→道学という教育メソッドを確立しました。朱子学は、元代に科挙に採用されてから六百年間にわたって、中国の正統思想の地位を占めます。
 近思録は、北宋の四氏(周濂渓、程明道、程伊川、張横渠)の著述の抜粋を編集した道学の入門書。大学章句、中庸章句、論語集注しっちゅう、孟子集注は四書の注解。朱子語類は弟子の編んだ朱子の全集です。

 

朱子学と理/気の思想

 朱子学の特徴は、徹底した合理主義と哲学的な宇宙観です。朱子自身、自然科学の素養があり、天体の運行を模型を使って研究したり、雪の結晶を観察したりしました。
 朱子学は、天(宇宙)の実態について思索を重ねて、太極(もはやその先がない究極の理=一気)→陰陽→五行(木・火・土・金・水の五大元素)→万物化生、という宇宙生成の仮説を体系化しました。ここで気とは、宇宙に充満するガス状の連続的物質(エーテル?)をいい、それが物を形づくる基体物質で、同時に生命の根源でもあるといいます。これによって従来の儒教の概念を解釈すると、命=天の賦与する行為、ないし、天が賦与したもの、性=天に賦与された理、仁義礼智=性の具体的内容、情=心の奥にひそむ性が外物と接触するときの動き、などと体系的に整理できるのでした。


□参考文献


☆ 次回6月26日は、「尊皇思想とはなにか」を講義する予定です。


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