| '99.11.24 短評 | |
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自分が見えない「構造」 | |
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自分が無意識のうちに取り込まれている構造に自分は気づかない。現在の日本もまたそんな「構造」だらけだ。世界の対談で、川田龍平は、薬害エイズにおいても従軍慰安婦問題においても、人々が「お詫び」に苛立ったのは、「お詫び」が事実関係と責任の所在を明確にしない謝り方であるからであり、事実を明らかにし、自己の責任を認めるという「謝罪」がなされなかったからだと言う。日本人が海外で「アイム・ソーリー」を連発し、不気味がられるのも、この「謝罪」の言葉を本人は「お詫び」として使っているからだ。「状況」はあっても「自分」がいないという構造がそこにはある。 小谷野の売買春論は、様々な論者の議論のまとめと位置づけを行ってくれているだけでもありがたい論文だが、「愛のないセックスはいけない」というイデオロギーが、いかにわれわれに浸透しているかを思い知らせるものだ。このイデオロギーは実は現代に生まれたものであり、それが売春者への蔑視をもたらしているが、それは売春肯定論者の議論にも忍び込んでおり、自己矛盾をきたしてはいないかというのである。ここでも要は「自分を見よ」ということであろう。
高校生や大学生の間で、終末論を説く仏教教団が広がりつつあるという米本のルポは、功徳と罰という単純な構図に惹きつけられる若者の姿を描き出す。「曖昧な自己」と「単純化された自己」、現代の日本人にはその両極しかないのか。寂しい。
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| <今月の論文> | |
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対談 責任不在社会をどう変えるか(川田龍平、高橋哲哉) 世界12月号 「もてない男」の売買春論(小谷野敦) 諸君!12月号 若者を魅きつけるラディカル仏教「終末論」(米本和広) 現代12月号 | |