'01.10.13 読売夕刊
増える自殺−本に読む処方箋
 人生観、人間観の構築を


 自殺者が三年連続で三万人を超え、過去最高の水準を示している。男性が七〇%、年齢別では五〇代以上が六〇%を占め、「経済苦・生活苦」を動機とする自殺が増加している。確かに世は不況であり、リストラ旋風が吹き荒れている。しかし、絶対的貧困も飢餓も存在しない「豊かな」社会での、欧州諸国の二倍にも達する自殺率の高さは何だろう。「痛みを伴う構造改革」が今後控えていることを考えれば、この問題への対処は急務である。自殺をめぐる著作が最近相次いで出版されたが、それらはどのような処方箋を与えてくれるだろうか。

 ジャミソン著『早すぎる夜の訪れー自殺の研究』(新潮社)は、自ら躁鬱病患者であり自殺未遂も経験した心理臨床家による著作である。自殺の歴史、心理、方法、遺伝、脳科学、治療、予防等の各分野が網羅された自殺学大全。その中で著者が強調するのは、自殺は人生における喪失や深刻な打撃から起こると考えられがちだが、それらの出来事が起こっても多くの人は自殺を回避する防御の盾を持っているのであり、自殺を引き起こすのは、心の病的な状態と重なった時だということである。その心の病的状態には、脳内のホルモン異常や薬物乱用などの生理的な要因、幼児期における虐待、社会的孤立などの社会的な要因があり、その心の病を治療しなければ、自殺は予防できないという。とすれば、現代の日本人を襲っている心の病とは何なのだろう。

 チハルチシヴィリ著『自殺の文学史』(作品者)はボリス・アクーニンを名乗る流行作家であり、三島由紀夫のロシア語訳なども手がける才人による自殺論である。「自殺は許されうるか」をテーマに、古今東西の文学者の自殺を網羅した大力作だが、才気溢れる著者の手にかかると、文学者達の死にざまが悲惨でありつつも魅力的にも思えてくる。芥川、三島、ヘミングウェイ、ネルヴァル・・・、文学者の死は虚無であっても意味に満ちており、彼らの文学の必然であり、文学者としての人生の必然であるかのように思われるのである。そして、その過剰ともいえる「意味ある死」の毒気に当てられてしまうと、現代日本における死の「希薄さ」がいやが上にも浮かび上がってくる。

 その「希薄さ」を実感させられるのが、今一生著『生きちゃってるし、死なないし』(晶文社)だ。舞台は日本、主人公達は自殺未遂常習や自傷癖の若者たちである。ここに登場する「自傷ラー」の若者たちの自らの身体にナイフを突き刺す様は壮絶だが、それは実は自分自身の存在を確認しようと試みる行為である。親からの虐待によって歪められた私、社会から押しつけられる「いい子」の私、そうした「私」が内面化されてしまい、自分が誰だか分からない。若者が自らを傷つけ、死を企図することは、その痛みによって自己を取り戻し、「生」を取り戻す行為なのだ。しかし、内面化の進んだ年長者はその仮面を外すことができずに自殺してしまう。自らを捧げた会社から裏切られたときに、そこには何も残ってはいないのだ。

 「死ぬと分かっていて、なぜ人間は生きていけるのか」という根源的な問いに答えを出していくのが文学部というところだ、との大宅映子さんの発言が鷲田清一著『〈弱さ〉という力』(講談社)にある。しかし、人間の有用性、生産性のみに焦点を当ててきた、経済至上主義的な人間観によって、文学部的なものは無駄だと切り捨てられてきた。その風潮は「構造改革」によっていっそう強まるだろう。だが、それでは大量に生み出される弱者は決して救われず、自殺者が減ることはない。右肩上がりが止まった今こそ、そして新たな「痛み」が生み出されようとする今こそ、遅れている精神医療体制やサポートグループ作りとともに、人間性の深みからの人生観、人間観の構築が求められている。自殺の予防もそこからしか始まらないだろう。



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